文化としてのバラ
誘引されたつるバラの枝の姿に美学が宿ることは万人が認める所。えっ、切っているのですか ? それは勿体無い。この枝こそ己の考え方や気持ちが現れる表現手段、心を込めて自分の心を表す素材が枝です。これからの庭造りは繊細な枝先を操る事で未来が開かれてゆきます。自らの心が硬い太い枝先だけとは。なっさけないですねー。
ガーデニングブームが始まったとき、殆どの方が四季咲きバラを基準としてオールドローズやつるバラなど四季咲き性のないバラを見ていました。四季咲きのバラは枝の剪定により成長と開花管理を行う、つまりバラ栽培とは剪定であったのです。対象が変わっても過去の剪定から抜け出せずにいる、つまりバラの枝は切ることが前提。これが四季咲きバラの呪縛、この考え方から抜け出す事は容易では有りません。
四季咲きバラに付いてはカタログ(Rose List 2010 Spring)でもお話しました。開花と成長は人為的に施す剪定によってコントロールされ、バラも良好な生育状態、健康状態を維持することができる。しかし鋏を持つ人間はたえず剪定を施されるバラの立場になって物事を考え、バラにとって自分の剪定が果たして良かったのかと自問自答する立場に立たされます。己を過大評価しないこと。物言わぬ、無抵抗であるバラに対し、文化人として持つべき最低限の自覚、節度です。
この心を持って接するからバラは庭の王者であり、バラを栽培する人は古くから一目置かれ、文化人として尊敬されていたのです。しかし嘆かわしきは、この状態が崩れ始めています。いえ、もう崩壊しているかも知れません。鋏を持つ人の心理は怖いのです。哲学を持たないと伝統が理解されずバラの文化を失いかねないのです。
かつてバラの先達の残した言葉。「バラと話をしなさい」は、切られるバラの立場に立って己の行為を見直し、より良い方策を見出しなさい。と言っていたのです。これを先達は自分の背中を見せながら僅かな言葉をヒントとして残してくれたのです。なすべき事は考えること。感じること。これをしてバラは文化を保持できるのです。
つるバラの剪定考察
四季咲きバラは枝に施す剪定によって最良の結果を出せます。この理論が通用するのは四季咲きバラの中だけです。この四季咲きバラの世界から一歩外へ足を踏み出せばそこに待っているものは様々な種類、性質、系統のバラ。バラは多種多様に存在し、このバラ達に理路整然とした四季咲きバラの剪定理論を施しても全く適応できないのです。
シュラブローズの流行は四季咲きでないバラに四季咲きバラ同様の剪定を施す傾向に弾みを付けました。繰返し咲で花弁数が多く大輪咲き品種であれば、冬剪定で切っても整合性は得られる。繰返し咲かないのは品種が悪い。この剪定理論を他のつるバラにまで拡大適応させようとしたのです。この考えがつるバラの繊細な表情を奪うことにつながりました。
シュラブローズに景色を創り出す能力は低く、個人の楽しみとして用いるものであり、多くの小~中輪咲きつるバラは繰返咲性こそ無くても景色を創り出す能力と、人々の心を掴む能力に優れています。
世を挙げて剪定に走ります。枝が伸びれば切る。伸びる品種を植えちゃったのは誰。バラに尊意を表すべきなのです。バラに罪は無いのですから。鋏のせいにしちゃダメです。つるバラの樹形を尊重し、あるがままを受け入れて伸びた枝を使いこなすのがつるバラの基本です。
遠因はガーデニングブームの初期に、「オールドローズは何処で切ったら良いの」と問われて、ワケ分かんないから今まで住んでいた世界、四季咲きバラの剪定理論を強引に押し付けたのです。なにせ質問を寄せる相手は何も知らないのですから、答える側もやりたい放題。基本が無いからこの様な事になるのです。
野バラの小道で出会った
かつて小野寺先生に連れていっていただいたドイツはボーデン湖に浮かぶマイナウ島。ここに世界で唯一、無剪定で原種と亜種を栽培する鑑賞庭園が存在します。この「野バラの小路」を見た時の感動は圧倒的で、今も鮮明に記憶しています。
島にバラ園を造營したのも鹿の食害を避けるためであったと推測しています。そこまで徹底して自然樹形の姿を追求し周知するためでしょう。その見識の高さには只々敬服です。そののち三十数年して樹形図なるものを考案し、つるバラの樹形を基にした栽培、鑑賞、造園法の一助にしています。樹形図はマイナウ島の経験なしでは到底考え付かなかったと思います。
この「野バラの小路」の経験を通して剪定のあり方を学んだのです。おそらくこの経験を経た者とそうでない者ではバラに対しての考え方が決定的に異なるものになると、私は信じます。だからガーデニングブーム創世記には個人的に「オールドローズは剪定なしで良い」と答えたのですが、切り方を知らないと受け取られたようです。
結局、オールドローズブームは樹形を使いこなせないまま、日本の庭にその居場所を見いだせず終息に向かおうとしています。使いこなせなかった最大の理由は樹形的特性を理解せぬまま、四季咲きバラの剪定理論を無理強いして矛盾を露呈し、美学を見いだせぬ状態のまま出口のない袋小路に迷い込んだからです。
「咲けば良いではないか」と反論は承知します。しかしつるバラの枝を使った庭造りは人の心の襞を写しとるような繊細な世界です。この鋭敏な感性の世界に、花が咲けば良いと言う理論は余りに未熟で幼稚に過ぎます。このようなつるバラの多様性を理解せず単一な価値観にのみに血道を上げるのは相変わらずです。庭は繊細な感性が支配する場所、感じ取る心を失いたくはないものです。
つるバラ全体に言えますが、その剪定理論は四季咲きバラの世界から抜け出せず、もがき苦しみむならまだしも救いはありますが、安易な解決法、切れば良いになっています。切るなと私は言い過ぎるのですが、切る事に固執しても次の時代は切り開けません。
伸長成長と肥大成長
一部で、つるバラの古くなった主幹は速やかに切除するように言われているらしいのですけど。この言葉は多分に園芸的であり、造園的見地とは相いれないものです。人の感情を考慮して作るのが庭の世界。庭の奥深さを理解すれば年数を経て得られる景色である古木の表情をなにより大切にし、庭の中で応用するはずです。表情豊かな古木は使いこなす対象です。一概の元に切るなんて勿体無いです。
バラに年輪は存在するのでしょうか。草の伸び方は縦に葉が伸びる伸長成長と呼ばれる成長をします。草の成長には肥大成長は起こらないのです。冬に上部は枯れ翌春芽吹きを迎えますが、葉の太さは前年と大差なく、株の大きさのみが肥大していきます。
樹木は伸長成長で主幹が高く伸び太陽に向かって成長を継続します。樹木の幹が太く成長するのは肥大成長が起こっているからで、草にはない樹木など高等植物に見られる特徴です。樹木が刻む年輪が肥大成長の証しになります。はて、数年を経て成長したつるバラの主幹を鋸で切り、断面に年輪が確認できるのか否か、バラは草なのか樹木なのか。
剪定したバラの幹の断面には年輪らしきものは確認できません。しかし明確には言い難いのですが、木本と草本の中間辺りに位置するのがバラの性質で、やや木本に近い存在であろうかというのが私の意見であり、先輩の言でありました。現に幹は太く肥大していきます。木本と異なる点はつるバラの枝に見られる外へ傾斜の運動がある事です。
バラは落葉低木で、樹木とは異なる成長を見せます。樹木は主幹が傾斜する運動を持たず、枝を伸ばし下垂させることで縦長半球形状の樹冠を作ろうとします。昔 TV CM に出てきた「この木なんの木」はもっと平べったい樹冠でした。つるバラは主幹を傾斜させることで次の成長を創り出す、木本とは異なる成長を見せます。だからつるバラは樹木的に扱うものであり、特有の性質を持つと言えます。
伸長成長的な考え方に基づく剪定
草の成長は冬を迎えると上部が枯れ株元までリセットされます。冬枯れがあるのです。従って冬越しをした枝や茎葉は存在せず株元と根が越冬し、翌春萌芽時期には新たな芽吹きが起こり、草萌えとなります。仮にバラが中間的な性質を持つのであれば、この性質を利用してある程度の応用を利かすことが出来るのではないか。
バラの剪定における解釈のあり方のひとつです。バラを草本のように剪定管理するとどうなるか。一年の枝の伸長は草本の様に冬にリセットされ、新たな春の開花は株元付近にしか起こらない。四季咲バラに対して行われているイギリスの剪定方法がこれにあたります。また日本バラ会のなかでのゲンコツ剪定がこの理論に近い存在です。
共に四季咲きバラに対して施される剪定方法であることを十分に認識しておく必要が有ります。または、イングリッシュローズ等のシュラブローズに対しても一部で推奨されている剪定方法です。イングリッシュローズのステムが長いことはこの剪定方法を前提とした品種改良であることを物語っています。英国では伝統的に庭園内でのバラはみな、冬に短い剪定を施されるのです。エダタンですね。
上記の剪定方針、剪定理論では、枝は冬越しをさせず、常に春からの成長基点を株元もしくはその近くに限定し、低い位置で開花状況を楽しむ。枝は茎葉であって長年成長を司るものでは無い。これであれば論理的整合性が得られています。ただ一点を除いての話ですが。
その一点が「バラに肥大成長が存在するか」です。上記の剪定を四季咲きバラに(いやシュラブローズも含めてですね)限定したのは、冬剪定を経て、開花は常に新たに伸ばした枝先に必ず ! 起こるからです。四季咲きバラは枝を作り伸ばしながら開花を得ているのです。だから株元付近の低い位置に春からの成長基点を設定したとしても、開花量の減少は否めないものの、論理的整合性は(一応と考えざるを得ぬのですが)存在すると考えられます。
四季咲きバラは深い剪定を施し勢いの良い太い枝を伸ばし、この枝を土台として次々と花を咲かせます。四季咲き性を持つ品種ならこの理論は納得できます。四季咲き性を持たない品種はもちろんダメです。絶対に論理的整合性が得られないのです。
如何ですか。ここまで読み進めてハタと気付きませんか、理論の壷に落ち込んだことを。何故今こんな問題を持ち出すかと言えばバランスよい判断材料にしていただく為。つるバラに関しては伸びた枝が全てです。剪定の強弱は花弁数や花径に基づいて対応するのみです。
先達の残した言葉、「バラと話をしなさい」は自らの行為を検証し、文化人としての節度を持つことであると述べました。この気持が崩れはしないか、節度が存在するか、余りに幼稚に過ぎはしないだろうか、などなど自戒を込めて鋏を握ることが大切なのです。エダタンは人の見本となる職業人の剪定では有りません。上記剪定論も私は肯定しません。エダタンには人の心の温もりが感じられない、植物への愛情が感じられないと感じるのは何故でしょう。
バッハのピアノ前奏曲集や練習曲を聴くと、音を通して作曲法や演奏法(素人にはそう聞こえるのですが)を、まるで弁証法的唯物論を展開しているように解説されていると読み取れるのです。これがこうだからこうなるでしょ、と語りかけてくるのです。
己の考え方のみを無抵抗な植物に押し付けるなど、そんな事をしなくても綺麗な庭、魅力的なバラ園は造れます。理論の罠にはまった人間にならぬように。私自身、深い剪定は数十年前に実施して手痛い後悔の念をかみ締めた経験が有ります。一度経験すれば己の浅はかさに気付きます。でも人間は失敗からしか学ぶことはできないのです。
私ども専門店の立場から見えてくることは、バラの文化も守る必要があり、種の保全を前提としたら大切なバラに一方的な強制は不可能であるということ。つるバラの生育理論に基づいた樹形図が必要になるのです。そして剪定理論や庭での使い方、なによりも人の心を掴む手法の習得が必要になるのです。庭も唯物論的要素を多分に含んでいます。庭は心理的誘導の世界ですから。